昭和五十七年五月三十日 朝の御理解


御理解第六十八節

「神参りをするに雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ、その辛抱こそ身に徳を受ける修行ぢゃ、如何に有難そうに心経や大祓を上げても真がなければ神に虚言を云うも同然ぢゃ、拍手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ小さい音でも神には聞こえる、拝むにも大声をしたり節をつけたりせぬでも人にものを云う通りに拝め」


 下駄の歯が欠けても歩きにくいね、私共の心が欠けては世渡りも難しい。金だけはあっても健康だけはあっても、世渡りには様々な条件が揃わなくては、良い世渡りは出来ませんね。
 信心しておかげを受けると云う事は、自分の心が欠けてる事を気付かしてもろうて、それを改めていく、間違いの無いものにしていくと云う事であって、信心しておかげを受けると云う事はね、お徳を受けると云う事ですね。
 いわゆる合楽で云う足ろうたおかげ、十全のおかげと云う事になるのです。
 その十全の教えを教祖金光大神が身をもって頂かれ、それを示されてあるのがお教えである。
 福岡の川上さんは、此処十年間、毎朝お日参りを続けておられますけど、電車、バスで見えますから途中で沢山の人にお話をして来られ、又、お導きをなさいました。
 その中に最近、当時日本一と云われるような大きな教会で何十年間の信心を続けておられる人で、金光様は有難いんだけれども、分からない事があるから合楽から出ております、天の心、地の心と云う御本を、薄い本ですから毎日一回読む、と云われるんです。
 毎日そこに新たな教えがあって、最近の私は日々が心が生き生きと弾んだ生活が出来る、と云うて御礼を云われるそうです。
 合楽では、大祓信行を取りやめになって、今の新しい拝詞をされると云う事も早速それを奉行さしてもらい、長年水行、水をかぶって来ておったけれどもね、表行全廃と云う事を聞かしてもろうて、如何に表行全廃が本当の事か、と云う事を分からしてもろうて、長年の水行をやめさせて頂いておかげを頂きました。
 本当に生き生きとした顔をして昨日の御理解はどういう御理解でしたかと電車の中で話を求められる、と云う事です。
 その方の話の中に、合楽の御信心こそ確かに十全の信心です、欠けたものがない。合楽教会で表しておられるおかげこそが、金光大神の本当の教えである。これが教団全体に入っていくようになったら、金光教が本当に発展繁昌する事でしょう。と云う事を云われたと云う。
 大変お徳を受けられた先生の所ででも、これだけは分からんと云う事がある。あちらの教会でもこちらの教会でもね、それを尋ねる訳にもいかない。
 それを合楽教会では見事に、今日、私が申します、足ろうたおかげを頂き現しておられるお教会。と云うふうに云われた、と云う事でございます。
 改めて思わして頂くのに、確かに合楽の場合はね、それこそ満月のように欠けたる事もない。
 欠ける、これは藤原の道長ですか、いわゆる大変な権勢、自分の云う事、思う事が出来ん事はないと云うて、ま、これは傲慢、慢心。そういう例えに云われるお詠がありますね。
   この世をば、わが世とぞ思うもち月の、
           欠けたる事もなしと思えば。
と云ったようなお詠です。
 合楽の場合には、そういう内容は勿論違いますよ、神様のおかげでね、いわゆる欠けた事のない欠ける事のないおかげの中にある。 だから此処で私の信心を皆さんが聞いて下さったり、習って下さったりすれば皆さんも欠ける事のない、そうした円満具足とでも云うでしょうかね、そういう信心を身に付けていく限り、私、そういうおかげが約束されると思います。又、皆にもそういうおかげを頂いてもらいたいと思うですね。
 そういう事実を御本の中で読ませて頂いてです、いよいよ合楽の御信心の間違いなさと云うか、素晴らしさに、今迄味おうた事のない生き生きとした信心生活が出来ております、と云う事であったそうです。
 だから結局、一切を御理念による生き方を身に付ける事なんですけれども、御理念を覚えたと云うのぢゃなくて、やはり体得でなからなきゃいけんです。
 実際に実顕実証して、それを自分のものにしていく、と云うものでなからなければ駄目です。
 頭で分かっただけぢゃね、又、それを今日一日、二日、ではいけないね。
 栄養のあるものを食べたから、もうそれで良いと云う事ぢゃない、やっぱ日々、血に肉になる栄養を取っていかなければいけないように、いよいよ合楽理念に基づく信心生活が、有難いもの楽しいものになって来るおかげを頂かなければならない。
 そういう在り方になると神様が前になり後になりしてね、実顕実証していく事の喜びを教えて下さるです。
 これはその気になればそうです。ですから出来るです。
 昨日も福岡の伊藤さんから電話が掛かって来た。
 その前の日が幹部研修会でしたからね、で、ま発表しておられまたが、こちらへ参ります電車の中で、白い顎髭を生やした随分お年寄りのお爺さんですけれども剣道具を横に置いて、そして何か手帳のようなものを出してずうっとメモしておられる、と云う方に出逢った。
 丁度前に座っとるその方の事をじっと見てまいりましたが、そんなお年寄りになっても、ま、師範でもなさる方でしょうね、稽古ではないでしょうから、教えに行っておられるかなんかでしょうね。 確かに信心も剣道と同じ事で、技を研いていく、と同時に日頃の構えと云うものがね、その姿勢の中に感じられた、とこう云う。
 本当に信心も構えを作らなければ、と云う思いで今日参りましたら、あれこれとおかげを受けた話をなさいました。
 昨日電話が掛かってまいりましたのは、帰り道福岡の電車の終点で降ろさせて頂いたら、剣道着を着けて竹刀をもっておる小さい子共に出合われた、と云うのですね。
 あ、今日は行きがけには白髪のお爺さんの剣道剣士であったが、帰りにはこの豆剣士の姿を見て構えを作れ、技を鍛えよ、と神様は云うて下さってあるなあ、と思うて帰りました。
 研修が終わって帰ったから遅くなり、もうご主人が帰って何やらかにやら準備しておられて、何時までも何処行っとるか、と云うて大変な剣幕で云われた、ところが先生構えを作っていく、と云う事はこんなに素晴らしい、もう云い分けも何も、ただすみません、と自分が後の炊事をさせて頂いたら、いつものように、いつも以上に楽しい夕食のおかげを頂く事が出来ました。と云う御礼の電話であったね。
 伊藤さんと云えば、西分会の分会長であると同時にくの一会の会長もしてられます。自由自在に自分の心を使おう、と云う人達の集まりですからね、剣道の道もやはり同じ事、と思うです。
 私、剣道はやった事がないけれども、打ち込んでいくにしても、受けるにしても、やはり構えを作っておかなければならない。
 合楽理念の実顕実証でも構えを作っとかんと、あら又失敗した、ではいかん。腹立てん筈のものが、又、腹を立てた、ではいかんです。
 愚痴不足は云わん、と思いよったら、又、愚痴不足を云うたでなくて、そういう愚痴不足やら打ち込まれる時程ね、日頃の信心にもの云わせなければならない時なんです、だから、その気になって構えを作って稽古をすると信心が楽しい。
 確かに合楽理念の実顕実証なさる方達は、もう後に先に神様がそういう見る物聞く物の中からでも教導して下さるです。
 日々、実顕実証しておられる方達がね、例えば、前を走っておる車のナンバーからでも自分の心を取り直される、と云うような働きがいつもあっておるんです。だから合楽の御理念、その十全の教えを私共が間違いなく行じていく楽しさ、喜ばしさが生まれてくる稽古をすると段々上達していく事が楽しくなってくるように、信心の徳を積んでいく、と云う事が楽しうなってくる、有難うなってくるね。
 そういう意味で合楽理念は十全のお教えです。十全のおかげを受けられるです。欠けたもののない、お金はあるばってんいつも病気をしてござる、健康であるけれどもお金がない、と云うような事ではない、合楽理念はあれもこれも足ろうたおかげが約束されるです。 合楽理念を行ずる、と云う事は簡単です、明瞭です、おかげが確かです、と云うふうに云われます。だから私共がね、信心は容易いものぢゃが氏子から難しくする、と教祖様はおっしゃるように、難しいものにしてはならんのです。
 楽しいもの、愉快なものにしていく為には、稽古が身に付いていくおかげを頂かなければダメです。
 身に付いてしまうと楽ですね、その為には、例えば今日の御理解です。
 雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ、辛抱こそ、と教えられる。
 だから、いかに合楽理念が十全の教えで十全のおかげを受けられる、とあってもですね、辛抱力の無い人は駄目です。
 こうと心の中に決めた事。教えがこう、と心に誓わして頂いた事を行じぬく、と云う力を辛抱力ね。
 たまに辛い事もある、苦しい事もある、例えば、日参を思いたっては今日はもう御無礼しようごたる時もあるけれども、それを貫かして頂いておるうちに朝参りが有難い、楽しいものになってくるんです。辛抱せんでよくなってくるです。
 辛抱の徳です。何をしてもそうです、この辛抱力がないね。
 私は子供の時から商売人をめざしておりました。
 商売の勉強は子供の時からしましたし、色んな御本も読みましたね。商売で一つ成功のおかげを頂きたいと思うてた。云うならば商才も人よりもある、とこう確信をもっておったね。
 物を売るでもね、人が一つ売る時には五つ位売る、と云うような自信も段々出来て来た。
 ところがね、私は自分の商才の為にお商売が出来なくなった、と云うてもよい位に、その商売がにっちもさっちもいかなくなったね。 神様にいよいよ一心を向ける、兎に角学が身を喰う、と云う教祖の言葉があるがね、その才がかえって自分の身を滅ぼす、と云う事にもなるのですね。
 信心させて頂き、今日の六十八節と云うのは、私はいつも此処ん所を思うのですけども、六十八節、六と云うのは合楽では徳と云われるね、徳にプラスする所と八ですから、もうお得さえ受ければ、兎に角広がりに広がる、繁昌に繁昌のおかげを頂く、しかも合楽理念をもってするならばです、合楽理念によるお徳を受けるならば、十全の徳が十全のおかげが欠けた事も欠ける事のない、おかげが受けられる。
 そういうおかげを頂けれる信心をめざす、と云う事、これには才はいらない、学はいらない、いや学があって悪い、才があって悪いと云うのぢゃないですけれども、私自身商才だけは自信をもっておったけれども、その自信がもろくもくずれてしまう事によって初めて神様のおかげを本当に分かるようになったね。
 信心すれば誰でもお徳が受けられる、六十六の六は誰でも受けられる、誰でも受けられるお徳を頂く為には合楽理念に基づく以外はない、それも十全の徳を受ける為にはですよね、だからその徳を受ける為には辛抱力はいる、と云う事ですね。
 その次にある、真心の追求はいる、と云う事ですね、心に真がなかったら、と此処ではおっしゃっとられますね、いわゆる真の追求です。
 信心辛抱の云うなら貫く力です。
 これはいくら合楽理念に基づいたところで、その芯になからなければなりません。その気になると伊藤さんぢゃないけれども、構えを作ろうと云う気になると神様が後になり先になりして、さあこういうふうにして構えていくんだぞ、打ち込まれたらこうして受けていくんだぞ、と云うように、もう手を取らんばかりにして教えて下さる働きが必ず起こるです、又、起こって来なければ私なんか辛抱出来なかったと思うですね。
 そういう生き生きとした働きをそこに見たり感じたりするから、出来ない辛抱も出来たんです。こらえられない腹立ちもそれを治めていく事が出来たんです。どんなに悲しい時でも、その悲しい思いを喜びに替えていく事が出来たんです。
 だから辛抱力がいる、真の追求、その内容においてはね、そして今、合楽で云われる御理念、これは頭が良いとか悪いとかぢゃない、器量の良し悪しではない、もう心一つなんだ、と云うその構えを作れば神様が教導して下さる、それを貫こうとするその一心ね、何をしてもやっぱりね。
 辛抱力がいるですけれども、信心によって徳を受ける、と云う事になったら人間の幸福の条件が全部足ろうて来るんです。
 自分だけぢゃないです、自他共に助かっていく道が云わば、六十八節。
 広がりに広がっていくおかげが頂かれるのは合楽教会を見れば分かる、合楽の大坪総一郎を見れば分かる訳ですね。
 それを皆さんは見習い神習いして下さる事なのですから、はあ、自分程頭の悪か者な出来まい、と云う事ではありません。
 信心すれば誰でも御神徳が受けられる、とお教えにありますように、その誰でも受けられる御神徳の手立てが合楽理念ですね。
 その為には辛抱。これだけは辛抱しぬく、何が出来なくても、本当の事からより本当の事が分かったら改めていく、そういう姿勢、そういう構えがまずいるんです。
 信心して徳を受けておかげを受ける、と云う事はそういう事なんです。
 その徳こそが、あの世にももっていかれるのです。
 勿論この世にも残しておけるのですからね。
 一生懸命、ま、色んな手立てをもって成功したいと皆が思います、沢山のお金、云うなら金満家にもなりたいと思いますね。
 そして七十になり八十になってから、はあ金は沢山貯まり家も立派になった、けれどもいよいよね、人間の終着駅に近づいて来るに従って心が淋しくなって来る、といったような事ではいけんでしょう。
 昨日の敬親会で、八十歳位のお婆さんが、養子とあんまり具合よういかない、それで、もう一人娘がおりますから、その娘の所に行きゃよかぢゃんの、と私が云いましたら、その娘婿があんまりよか人間ぢゃなか、と云うような事を二人で話した事でした。
 若い時には熱心に椛目通いをした方ですが、先生、私は食べ口だけは持ってくるけん合楽教会に来ちゃいかんぢゃろか、ち、云いなさるですもん。
 私がそれはいかんばい、ち、云いました、なしかと云うと、娘やら子供達がおる子供はどげなふうになるの、まるっきり此処ばあんた養老院の事と思ちゃ出けんち。
 うんね、養老院に行くとえらい大事にしてもらうげなけんど、ばってん養老院に行っちゃやっぱいかん、と思うけん教会ならどうぢゃろか、此頃その事ばっかり考えとる、ち、云うのですよ。
 うんね、そりゃ出けんね、けれどもね、十日か十五日位此処に泊まっときゃいいぢゃんの、ち、私が云いました、すると又、家に帰るごつなるが、ち。だから一晩二晩ぢゃなくて十日か十五日位いっちょ此処泊まってみなさい、ちね。
 泊まる所があるぢゃろか、ち、云いなさるけん、はあ、あげん広かとこあるが云いました。そげんしてよかろうか、ち、云う。
 そげん云いよったら、段々来うごつねえごつなったごたふうぢゃん。だから、あんたが本当に合楽に来うごたるならばね、あんたが今から此処に修行に来る、ち、云う訳にもいかんし、今からあんた金光様の先生ち、云う訳にもいかんから、もう泊めちもろちから、十日でん十五日でんいいぢゃんの、泊まらんの、ち、私が云うた。食べ口は持って来んでんよかけん泊まらんの、ち。
 そうすると、又、家に帰ろごつなるね。
 例えば、信心をしておってもですよ、信心すればね、一年一年有難くなってくる、ち、云われる。その有難くなっていく所に焦点を置かなかったら駄目です。
 この方は若い時から、そん時そん時は大変おかげ受けたお婆さんです。けれども心にその喜びを作っていく、と云う手立て、今で云う御理念に基づく生き方ではなかった訳ですね。
 合楽にこれだけ沢山の信者がおるが、皆がみんな喜ぶと云う訳ぢゃない、只、おかげおかげでいくら云うてもわからん、と云う人もありますよ。
 そのわからん方に入らずに、本当に信心の喜びが一段一段手が上達していく事を楽しみに、合楽通いをしなきゃ駄目です。
 そうすりゃ誰でも器量が良かろうが悪かろうがね、頭が良かろうが悪かろうが、学問がなかっても有難くだけはなられる、しかも御理念に基づく生き方を本気で構えを作ると、伊藤さんぢゃないけども後に先に神様はちゃんと導いて下さる。
 だから受けもらす事がない、又は、打ち込んでいく手立てを教えて下さる、これはもう間違いがないです。
 その気になって御覧なさい、合楽の神様はそういう働きを必ず皆さんの周辺に起こして下さるですね。
 だからね、自分は色々な才がある、と云うその才と云うものが我無力無能無才にして、と云う、私の教えの中にありますね、と云う事をまず分かる事、そして神様のおかげを頂くと云う事は、御理念に基づく生き方を自分の信心の血肉にしていく、と云う精神。それには雨が降るから風が吹くから、と云うような事では駄目だ。それを貫く精神さえあれば、誰でも信心すればお徳を受けられる、と教祖が約束しておられますからね。
 それを私共が実顕実証して頂いて初めて、教祖のお教えを生かす事になるんです。
 だから教祖のお教えを生かす為に信心の稽古をする、と云うても良いのですね。
 いよいよ御理念に基づく、いわゆる六十八節、信心による徳を受け力を受けてです、もう広がりに広がる、これはあの世までも数あらず広がっていく、そしてそれが子孫にも残る、と云うのですから、どんなに成功しても、どんなに金を儲け出してもね、それをあの世に持っていく事は出来ません、この世に残しておく事は出来ませんね。
 だから何が何と云うても、地位、財産、学問があっても信心が芯にならなければ、人間の本当の幸福の条件と云うのは足ろうてこない。
 本当から本当、いわゆる真心の追求をさして頂きながらね、信心辛抱の辛抱力を作らしてもらう。その辛抱力が、もう辛抱力と云わんでんすむ位になる所まで、お互いの信心が有難い、楽しいものにしていかなければならん、と思うですね。
                        「どうぞ」